語源の語源の語源の語源の

今日のゆに様ツイートで「どっこいしょ」の語源についての話があった。諸説あるみたいだが仏教用語の六根清浄が元となっている説があるらしい。六根とは五感+意識のことで、六根清浄とはつまりこれらを清らかな状態にすることらしい。が、それは今は関係ない。

どっこいしょが六根清浄からきているのならば、では六根清浄はどこからきているのか。根は人間の認識の拠り所となるところでありそれが六つ、清浄はそのまま清いと浄いだろう。

では更にその先は?ずっとずーっと語源を遡っていくとどうなるのか。汚れがない状態をなぜ清いと言うようになったのか、大元の部分をなぜ根と称するようになったのか。そこをひたすらに遡っていけばやがて言葉の誕生に突き当たるだろう。

言葉がなくても思考はできるはずだ。言葉を操らない野生生物でも、魚はエサによってくるし野良猫は近づいたら逃げるし蚊は手の横をすり抜ける。これを思考と呼んでいいのかは分からないけど。集団で狩りをする動物もいれば群れで生活をする動物もいるし、行動パターンを決める思考はあると言っていいだろう。人類の祖先もそうだったのかもしれない。

ただ、集団生活をする上で思考の言語化が必要だったのではないか。複雑なコミュニケーションを取るために言葉が必要になったのではないか。最初は鳴き声に近いものだったのが、段々と体系化され共有されていったのではないか。

そう考えると、なんの手がかりもないままに物事に名前をつけていく作業は非常に困難だったのではないか。例えば棒。英語ではStickと呼ぶが、なんでこいつをこう呼ぼうと思ったのかはもう誰にも分からないのでは。誰かが「よ〜しこの細長い形状の物体は棒と呼ぼう!」とある日突然思いついたのか、はたまた細長いなにかが棒に似た呼び方で呼ばれていたのか。ならばその棒の元になった言葉はどう生み出されたのか。

多分分からない。もしかするとそんな研究が行われているのかもしれないけど僕は分からない。ただ、ほんのちょっとしたきっかけで棒は「ぶえ」という名称を与えられていた可能性もある。そう考えたらある意味僕らが今使っている言語はすごい偶然の上で成り立っているのかもしれない。

今日のゆに様のツイートだって、ぬらちょっぴは蠶典嵐語の翻濡蝶火から来ているになっていた可能性だってある。